年/歳
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出来事
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1875年(明治8年)1歳 |
5月24日、愛媛県伊予国温泉郡三津浜村(現松山市)に旧伊予国松山藩士であった父光之と母ナホとの間に生まれる。 |
1876年(明治9年)2歳 |
母ナホが39歳で死去。広徳の不幸な少年時代がはじまる。 |
1877年(明治10年)3歳 |
父光之が商売を廃業し、一家六人の貧しい暮らしを始める。 |
1879年(明治13年)6歳 |
父光之が死去。残された兄弟たちは、親戚に寄食することになり、一家離散。広徳は母方の伯父笹井家に引き取られる。 |
1881年(明治14年)7歳 |
松山巽小学校に入学。成績は時には主席、だいたい3番以内と優秀であったが、喧嘩の常習犯であった。 |
1886年(明治19年)12歳 |
友人らと帰宅途中に巡査に捕まり、交番で暴行を受ける。地元の新聞紙に小学校生徒の乱暴という捏造記事「あたかも長崎事件・・・」が掲載される。このことにより、権力濫用に対する反抗心が芽生える。 |
1889年(明治22年)15歳 |
小学校を卒業し、伊予尋常中学校2年に入学。 |
1890年(明治23年)16歳 |
いたずらがひどいため、笹井家を追い出され、兄の家に寄食することになる。厳しい生活を強いられるようになる。 |
1891年(明治24年)17歳 |
友人らの勧めで、海軍兵学校を志望するようになる。 |
1892年(明治25年)18歳 |
兵学校の入学試験科目は、代数、英語、漢文のみであったため、そのほかの授業には出席せず、そのため成績が著しく低下する。 |
1893年(明治26年)19歳 |
3月、卒業試験に失敗して落第。それをきっかけに自発的に退学する。8月、始めて海軍兵学校の入学試験を受けるが、失敗する。 |
1894年(明治20年)20歳 |
兄光義が30歳で病死。痔核のため海軍兵学校の入学試験を断念。兵学校の入試科目に一般普通学科目が加えられたが、入試科目以外の勉強を怠っていたため慌てる。そのため、5月に尋常中学校に再入学する。 |
1895年(明治28年)21歳 |
8月、三度兵学校を受験するも再び失敗。日清戦争後の拡張政策により、12月に兵学校が追加募集され、やっと合格する。 |
1896年(明治29年)22歳 |
広島県江田島にある海兵学校に入学。 |
1898年(明治31年)24歳 |
兵学校を卒業。少尉候補生に任ぜられ、軍艦「比叡(初代)」に乗船を命じられる。 |
1900年(明治33年)26歳 |
海軍少尉に任官、その後呉水雷艇隊付、上海警備陸戦小隊長などを経て34年10月に海軍中尉に任ぜられる。 |
1903年(明治36年)29歳 |
海軍大尉に昇進。第十艇隊水雷艇第四十一号長になる。日清戦争の間はこの職で戦う。 |
1904年(明治37年)30歳 |
日露戦争のため、朝鮮海峡、旅順方面の作戦に従事する。このときの従軍記は『戦影』としてまとめられた。 |
1905年(明治38年)31歳 |
日本海海戦に参加。水野の第10艇隊はこの戦いで活躍し、連合艦隊指令長官より感状を授与された。この時従軍記は『此一戦』として結実する。 |
1906年(明治39年)32歳 |
日露戦争中に従事した閉塞隊の記録が全国紙に掲載され、それがきっかっけとなり、海軍軍令部戦史編纂部に出仕を命ぜられる。東京で『明治三十七年海戦史』の編纂に従事する。 |
1909年(明治42年)35歳 |
大内モリエと結婚。 |
1910年(明治43年)36歳 |
『此一戦』の原稿を執筆する。『明治三十七年海戦史』の編纂は5年近くに及び、軍人としては、事実上出世の道を絶たれることになる。9月編纂の仕事がようやく終り、第20艇隊司令に任命され、舞鶴に赴任する。 |
1911年(明治37年)37歳 |
『此一戦』を出版し、一大ベストセラーとなる。 |
1912年(明治45年)
大正元年)38歳 |
海軍省文庫主管に任命され、東京に舞い戻る。この職は閑職であり、読書に親しむこととなる。 |
1913年(大正2年)39歳 |
米国で排日問題が起き、日米開戦についての論争が盛んになる。こうした時局に合わせ、日米戦争仮想記『次の一戦』を執筆するが、都合により発表を見合わせる。中佐に昇進する。 |
1914年(大正3年)40歳 |
『次の一戦』を匿名で発表する。しかし、所属長に無断で出版したことに関して謹慎処分が下ることとなる。これがきっかけとなり、『次の一戦』は注目を浴びて売上を伸ばしたが、第一次世界大戦の勃発後、当局によって絶版させられる。日独戦史編纂委員を命ぜられる。 |
1916年(大正5年)42歳 |
第一次大戦戦時下のヨーロッパの見学を決意。ドイツ軍による英国への空中攻撃、爆撃戦を実地にて体験。戦火が日本に及べば甚大な被害をこうむることを痛感。それまでの軍国主義、帝国主義が揺らぎ始め、愛国的見地から戦争否認の思想が芽生える。 |
1917年(大正6年)43歳 |
8月に帰朝。この間、渡欧記『波のままに』を刊行。海軍軍令部出仕、軍事調査会に勤務。「東京朝日新聞」に匿名で渡欧記「バタの臭い」を連載する。 |
1918年(大正7年)44歳 |
海軍大佐に進級。第一次世界大戦が終結する。 |
1919年(大正8年)45歳 |
『中央公論』一月号に姉崎政治博士の軍国主義攻撃に対する反論「我が軍国主義論」を発表。これ以降、文士としての名が高まってくる。大戦後のヨーロッパ視察を決意し、激戦地へ赴く。近代戦の惨状を知り、戦争の罪悪が身にしみる。盲目的な軍国主義者、帝国主義差から人道的平和主義者へと思想的な大転換を遂げる。 |
1921年(大正10年)47歳 |
『東京日日新聞』に「軍人心理」を連載。現役軍人の筆としてはいさかか大胆すぎたため、物議をかもし、謹慎処分を受けた。その後、軍と決別し、文壇において軍事、社会論評家として活躍。11月ワシントン軍縮会議開催。それを受け、軍縮小同士会に入り、同士らとともに軍縮論を精力的に発表していく。 |
1923年(大正12年)49歳 |
軍部が米国を仮想敵国とした「新国防方針」を決定したのに対し、「新国防方針の解剖」を発表。日米戦争を徹底的に分析し、日本の敗北を断言し、日本のみならず、ニューヨークタイムスなどにも取り上げられ、米国でも注目を浴びた。この間関東大震災の影響で、モリエ婦人が没した。 |
1924年(大正13年)50歳 |
左傾的思想人物として当局から危険人物視される。5月、衆議院議員選挙に際し、立候補を決しするも断念。9月、平和問題研究のための集会「二火会」を起こす。 |
1925年(大正14年)51歳 |
米海軍が太平洋状にて特別大演習を実施。日米両国民の感情的対立を憂い、「日米海軍の太平洋大演習を中心として(日米両国民に告ぐ)」を発表し、日米非戦論を主張する。 |
1928年(昭和3年)54歳 |
寺尾ツヤ子と再婚し、世田谷に移住。 |
1929年(昭和4年)55歳 |
『民衆政治講座』の一冊として『無産階級と国防問題』を出版。 |
1930年(昭和5年)56歳 |
旅順海戦私記『戦影』、戦争小説『空と海』を出版。 |
1931年(昭和6年)57歳 |
満州事変勃発。 |
1932年(昭和7年)58歳 |
日米戦争仮想物語『打開か破滅か・興亡の此一戦』を発刊するが、発禁処分となる。満州事変以後、水野の執筆活動は、事実上不可能となる。このため、友人への手紙や俳句などで自らを慰める。 |
1933年(昭和8年)59歳 |
『秋山真之』を監修して発行。東京・日比谷公会堂東洋軒での「極東平和の友の会」の創設会に出席。演説中、暴漢が乱入し、会は解散を命ぜられる。この会への出席によって「左傾的」との批判を受け、その真意を明らかにするために『僕の平和運動について』と題する小冊子を配布する。「非常時背徳の人」が発禁処分となる。 |
1935年(昭和10年)61歳 |
『高須峰造先生』を非売品として出版。 |
1936年(昭和11年)62歳 |
二・二六事件が起こる。友人・松下芳夫と共同編纂した『秋山好古』を出版する。 |
1937年(昭和12年)63歳 |
『日本名将論』を出版する。以後、当局の監視の目が厳しくなる。『戦争の知識』を出版するが、発禁処分となる。海軍大臣永野修身に対し、「海軍の自主的態度を臨む」と題する公開果状を発表する。軍事評論家・石丸藤太が軍機保護法違反で検挙さたことに伴い、水野も憲兵隊から反軍反戦的思想の持ち主として尋問を受ける。 |
1938年(昭和13年)64歳 |
『文と写真此一戦』を刊行する。 |
1939年(昭和14年)65歳 |
『戦争文学全集』(第九巻)の「水野広徳傑作集」(戦影、此一戦、空爆下の帝都)が発禁処分となる。 |
1940年(昭和15年)66歳 |
雑誌『海軍』に寄稿した論文「戦争と政治」が発禁処分となる。 |
1941年(昭和16年)67歳 |
情報局が『中央公論』編集部に提示した執筆禁止リストに水野の名が載ってしまう。12月太平洋戦争勃発。 |
1943年(昭和18年)69歳 |
胃をわずらって入院・手術。その後愛媛県越智郡津倉村本庄(現在の今治市)へ療養に赴く。 |
1944年(昭和19年)70歳 |
療養地から帰京。『This One Battle』を刊行。『少年版此一戦』を出版する。 |
1945年(昭和20年)71歳 |
再び津倉村に疎開し、疎開先で農耕生活を営む。米軍機より「水野広徳曰く」として、大正14年4月号の『中央公論』に掲載された「米国海軍と日本」の一部を記載した伝単ビラが全国にばら撒かれた。敗戦後の10月18日、疎開先で腸閉塞を起こし、今治市内の病院で死去。松山市豊坂町蓮福寺に埋葬される。 |