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水野広徳の顕彰事業


 水野広徳没後、南海放送(株)は水野に関する顕彰事業をこれまでおこなってきました。その経緯および編纂した資料について下記に記します。

水野広徳の顕彰事業について
南海放送株式会社

1. 当社との出会い

 水野広徳と南海放送との出会いは、1977年(昭和52年)までさかのぼる。
 戦時中、執筆の自由を奪われた水野は、妻ツヤ子の愛媛県越智郡津倉村本庄(現在の今治市吉海町本庄)で昭和20年10月、終戦直後に死去した。発禁となった著書の原本や数々の遺品は、妻ツヤ子の反対もあり、日の目を見ることなく眠ったままだった。
 その後、ツヤ子もこの世を去り、ツヤ子の甥にあたる今治市吉海町の重松冨来夫氏・重松敦夫氏から、南海放送の当時の社長平田陽一郎に著作物の出版と遺品類の管理について相談が寄せられた。
 当社は、1978年(昭和53年)5月15日に水野に関する事業の運営組織として「水野広徳著作刊行会」を発足させた。初代の刊行会長には平田陽一郎社長が就任し、遺族の代表者である重松冨来夫氏・重松敦夫氏、さらに地名・人名など考証的な面でご協力いただいた地元の越智二良氏・越智通敏両先生にも委員として加わっていただいた。
 当社が管理を委託された遺品類は、全部で約200点。軍服などの服装品、ベストセラーになった「此一戦」や自叙伝「前編・剣を吊るまで」と「後編・剣を解くまで」の原稿類、さらには筆やトランク類などの所有品まで多岐に渡っていた。

2.顕彰事業の黎明期


 1978年(昭和53年)の6月1日には、当社と重松家の間で「水野広徳著作権継承同意契約書」並びに出版社の経済往来社との間で「此一戦 出版契約書」を締結し、故ツヤ子夫人が所有していた著作権を刊行会が継承することになった。
 9月20日、原稿として残っている前後篇の自叙伝に反戦論者としての水野を一躍有名にした「新国防方針の解剖」の論文を添え、『反骨の軍人・水野広徳』(478ページ)が経済往来社から出版された。南海放送創立25周年記念事業としての出版の反響は瞬く間に広がり、各新聞メディアが全国版のコラムや書評欄で大きく取り上げた。
 また折りしもこの年、民間放送全国大会が松山市の南海放送本町会館を主会場に開かれた。この大会に併せて当社は、東洋大学教授で比較文学の第一人者、島田謹二氏を講師に招き、出版記念講演会を開催した。島田氏は講演の中で、水野と松山出身で日露戦争の名参謀として名を馳せた秋山真之氏を取り上げ、「明治の松山は文才軍人の宝庫」と称した。
 水野の顕彰事業はそれに留まらなかった。1979年(昭和54年)6月24日、海軍軍人から反戦作家へと変貌する水野をドキュメンタリー・ドラマで表現したテレビ番組「剣を解く〜反骨の軍人水野広徳」(30分)を放送した。構成・演出には南海放送のディレクター弘岡寧彦があたり、水野役の主演俳優には村松克巳が起用された。番組は一人芝居の形で進められ、世人に理解されない水野の苦悩と反骨を描いた。

3.水野広徳著作集の刊行

 当社の創立40周年(平成5年10月1日)記念事業にあわせる形で、二度目となる水野の顕彰事業がスタートした。
 その中核をなす一つは、水野作品の集大成となる「著作集」の出版だった。
同年12月17日、著作集の出版が正式に決まり、編集委員には粟屋憲太郎(立教大学教授)、前坂俊之(静岡県立大学)、大内信也(南海放送副社長)が名を連ねた。
 水野の戦争をいわば肯定的な見地からアプローチした著作は珍しくなかったが、軍縮論や平和論の原稿は、戦前にまとめられることなく戦後も埋もれるに任せて放置されていた状態だった。
 このため著作集は、これらの未公開作品の発掘と収録に重点が置かれた。これまで世に出ることのなかった著作の7割が初公開という「水野広徳著作集 全八巻」(雄山閣出版)は、1年半という長期間の編纂の末、平成7年(1995年)7月に刊行された。
 概要は次の通りである。

第1巻(日露戦争) 此一戦/戦影
水野広徳著作集第1巻(日露戦争) 此一戦/戦影の表紙の写真
 日露戦争を描いた『此一戦』『戦影』を収める。『此一戦』は発行当時100数10版を数えた記念碑的名著。『戦影』は昭和14年、「戦争文学全集」収録にあたり反戦思想ありとして発禁処分となった。
※解説・成瀬 恭(軍事史家)

第2巻(渡欧期) バタの臭い/波のうねり/他
  日露戦争で感状を受けた少壮軍人水野が、思想の転換をきたすきっかけとなった欧州大戦の戦中と戦後の二度にわたるヨーロッパ視察記。水野の平和思想の出発点を示す論稿。
※解説・宮本 盛太郎(京都大学教授)

第3巻(日米未来戦記) 次の一戦/興亡の此一戦
水野広徳著作集 第3巻(日米未来戦記) 次の一戦/興亡の此一戦の表紙写真
 水野は、思想の転換の前後に、2度日米未来戦記を書いた。『次の一戦』は
海軍力の増強を唱えるものとして当局から容認されたが、東京大空襲を予言した『興亡の此一戦』は発売後直ちに発禁となった。日米戦争が本書の内容どおりに推移したのは有名な話である。
※解説・藤原 彰(元一橋大学教授)

第4巻・第5巻・第6巻 論評/書誌
水野広徳著作集 第4巻 論評の表紙写真
 少年雑誌などへの寄稿、生前単行本としてまとめられた『日本名将論』などを除く単行本未収録論文のほぼすべてを収め、水野の全容を明らかにする。
※解説・粟屋 憲太郎(立教大学教授)

第7巻 日記/書簡/年頭の辞(遺書)
水野広徳著作集第7巻 日記/書簡/年頭の辞(遺書)の写真
 水野は詳細な日記をつけていたが、疎開直前惜しくもその殆どを空襲で失った。奇跡的に残った昭和14年分の日記と松下芳男、斉藤隆夫らに宛てた書簡、毎年頭に書き改めた「遺書」など貴重な未発表資料を収録する。
※解説・太田 雅夫(桃山学院教育研究所長)

第8巻(自伝) 反骨の軍人/年譜
水野広徳著作集 第8巻(自伝) 反骨の軍人/年譜の表紙写真
 水野は生前折に触れ、自身の半生の記録を執筆していた。しかし、その発表は固く禁じられ、夫人もその遺言を守った。そして夫人の没後、南海放送創立25周年記念事業として初めて刊行されたものである。
  ※解説・前坂 俊之(静岡県立大学)

 忘れられた思想家、水野の事績はもちろん、日本近代史を深める上で貴重な資料を完成させたことに対し、各方面から耳目を集めた。またこの著作集は、県内で上梓された出版物を対象にした第11回愛媛出版文化賞において「特別賞」受賞の栄に浴した。

4.テレビドラマ「悲劇の予言者〜海軍大佐・水野広徳の戦い」

 南海放送は平成7年7月1日、終戦50周年企画として、ドキュメンタリドラマ「悲劇の予言者〜海軍大佐・水野広徳の戦い」(55分番組)を企画・制作し、日本テレビ系列の29局で全国放送した。
 脚本・リポーターは作家の早坂暁、出演は水野役に林隆三、妻ツヤ子役に烏丸せつこという豪華なスタッフで、水野広徳の生涯を描き、感動を呼んだ。

5.シンポジウムと遺墨展

 戦後50周年に当る平成7年10月27日、特別シンポジウム「水野広徳―海軍大佐の反戦・平和―」を、愛媛新聞社創刊120周年記念、「水野広徳著作集」刊行記念事業として、南海放送本町会館で開催した。
 パネリストは静岡県立大学教授前坂敏之、作家の井出孫六、辺見じゅん、コーディネーターは作家の半籐一利で、「水野広徳の思想と生涯〜その現代的意味」について意見を交換した。
 合わせて、平成7年10月24日から27日までの4日間、水野広徳著作刊行会と重松家などに保管している遺墨、遺稿等関連資料を展示する「水野広徳遺墨展」を南海放送本町会館で開催した。

 これより先の平成6年(1994年)10月16日には、水野が眠る菩提寺、蓮福寺(松山市柳井町)境内で「平和護念の碑」除幕式が行われた。

6.遺品類の子規記念博物館への寄贈

 南海放送が重松家から委託され、保存をしてきた水野広徳の全遺品類の扱い等について、水野家と協議を重ねてきた。相続された重松富来夫氏のご長男重松昌彦氏(今治市吉海町在住)との話し合いで、遺品類全部を松山市の子規記念博物館に寄贈し、保管をしてもらうことになった。
 平成17年3月29日、重松昌彦氏から松山市の土居貴美教育長に遺品類の目録が贈られ、遺品類の管理が子規記念博物館に移った。



水野広徳に関する資料は下記のところにも存在します。
松山市子規記念博物館
水野広徳の遺品、数百点を所蔵しております。

〒790-0857愛媛県松山市道後公園1-30 Tel 089-931-5566
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sikihaku/


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