愛媛県伊予国温泉郡三津浜(現在・松山市三津)生まれ。母親とわずか2歳のとき、伊予松山藩久松家の徒士侍であった父とも6歳のときに死別した。
兄弟は兄が1人、姉が3人の5人兄弟。10歳年上の兄は、幼少の頃に病気で足が不自由になったこともあり、父は兄でなく水野(広徳)を相続者に決めていた。
父の死後、水野(広徳)はしっかりとした教育をしてもらうため、父が最も信頼していた笹井の伯父(母の実の兄)の家へ預けられた。その他の兄弟もばらばらに親戚の家に引き取られ、不幸せな家庭環境で育った。
幼少よりワンパクで、小学校に通うようになってから悪友も出来、意地の悪いイタズラ三昧を続けていた。黒板の前に立たされる「直立」や、放課後に残される「留め置き」をよく言い渡されていたが、成績は優秀で、卒業試験で賞をもらうほどだった。
明治の中期といえば、中学校へ通うにはかなりの金額が必要だった。「中学さえ卒業すれば、なんとか生活がしていける」というのは、まんざら嘘でもなかった時代である。亡き父は、自分の薬も買わずに一生懸命貯めたお金を伯父に預けていた。水野は父の恩にとても感謝し、中学校へ進学する。日本の経済がまだ発展していなかった当時、ビジネスマンは社会的に尊敬されていなかった。「出世する」といえば金持ちになることではなく、役人や士官になるという時代だった。水野は最初は陸軍を希望していたが、同級生に海軍のほうが将来的に有望だと勧められ、応募を海軍に変更する。
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