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水野広徳とは



水野広徳(1875~1945) 明治8~昭和20

幼少期

水野広徳の軍服姿の写真
水野広徳軍服の写真
 愛媛県伊予国温泉郡三津浜(現在・松山市三津)生まれ。母親とわずか2歳のとき、伊予松山藩久松家の徒士侍であった父とも6歳のときに死別した。
 兄弟は兄が1人、姉が3人の5人兄弟。10歳年上の兄は、幼少の頃に病気で足が不自由になったこともあり、父は兄でなく水野(広徳)を相続者に決めていた。
 父の死後、水野(広徳)はしっかりとした教育をしてもらうため、父が最も信頼していた笹井の伯父(母の実の兄)の家へ預けられた。その他の兄弟もばらばらに親戚の家に引き取られ、不幸せな家庭環境で育った。
 幼少よりワンパクで、小学校に通うようになってから悪友も出来、意地の悪いイタズラ三昧を続けていた。黒板の前に立たされる「直立」や、放課後に残される「留め置き」をよく言い渡されていたが、成績は優秀で、卒業試験で賞をもらうほどだった。
 明治の中期といえば、中学校へ通うにはかなりの金額が必要だった。「中学さえ卒業すれば、なんとか生活がしていける」というのは、まんざら嘘でもなかった時代である。亡き父は、自分の薬も買わずに一生懸命貯めたお金を伯父に預けていた。水野は父の恩にとても感謝し、中学校へ進学する。日本の経済がまだ発展していなかった当時、ビジネスマンは社会的に尊敬されていなかった。「出世する」といえば金持ちになることではなく、役人や士官になるという時代だった。水野は最初は陸軍を希望していたが、同級生に海軍のほうが将来的に有望だと勧められ、応募を海軍に変更する。


海軍兵学校~第一次世界大戦

水雷艇の写真
水雷艇の写真
 1893(明治26)年3月、卒業試験に落第し、それを機に中学校を退学。
海軍兵学校への入学試験科目は、数学、英語、漢文の3科目。受験資格は何の制限もなく、中学校の卒業証書も校長の証明も必要ない時代だった。
しかし、翌年になって、兵学校の試験にこれまでの3科目の他、一般普通学科目が付け加えられ、これらの科目はほぼさぼっていた為、勉強し直す必要を感じ、中学校に復学する。
 晴れて江田島海軍兵学校に入学。三年間の訓練と遠洋実習を経て、1900(明治33)年、海軍少尉になる。水野25歳。
 水雷艇長に命じられた翌年の1904(明治37)年2月、ついに日露戦争が開戦する。
 水野は戦争の期間を通して、水雷艇長として旅順封鎖や日本海海戦に参加する。その従軍記事は『戦影』(旅順法三従軍記事)、『此一戦』(日本海海戦記)に収録されている。『戦影』は、司令部から当時の実践記を書くように言われ、実状を書き綴って提出したものだった。国内の新聞や雑誌に掲載され、海軍には従軍記者がいなかったのと、実戦に参加した軍人が書いたということで注目を浴びたのであった。
 
原稿此一戦の中身の写真
原稿『此一戦』の本文

 また、軍の戦史編さんの傍ら『此一戦』を書くが、これが偶然にも評判となり、水野は文章家として「先生」と呼ばれるようになった。読書によって、人生と自己について考え、次第に官位とか勲章といった形式的な肩書きへの興味と憧れを失っていったようだ。強者の横暴に対する反感と、弱者の屈辱に対する同情心は世間の実状を知ることによってますます強くなっていった。米国が武力によって日本を圧迫していることに関して、これに対抗するには海軍力を強くするしかないと考え、日米戦争を予想した『次の一戦』を書く。
 1914(大正3)年、第一次世界大戦が開戦。水野は空前絶後の世界大戦を見学したいと考え、欧州各国への私費留学を願い出る。1916(大正5)年7月に東京を出航し、インド洋航路で喜望峰を回り、9月にロンドンに着きました。ロンドン、パリ、ローマ、を視察し、翌年8月帰国。


ドイツ留学~評論活動へ

ビザらしきもの写真
ビザらしきものの写真
 1918(大正7)年11月、休戦条約が締結、第一次世界大戦はようやく終わりを告げた。水野は敗戦国ドイツを見るために、再度私費留学。敗戦の苦痛と悲しみに沈むドイツの悲惨さをみて、人類と戦争、国家と戦争について考えざるを得なかった。
敗戦国は言うまでもなく、戦勝国にせよ、その国民は戦前よりも果たして幸せになっているだろうか、水野は感じる。どの国も物資の欠乏と生活難、労働不安定に襲われていたのだ。たとえ戦勝国であっても、勝利で得たものは、戦争で失ったものをつぐなうには到底足りなかった。
 戦争は国家発展の最も良い手段だと考えていた水野の軍国主義思想は、根本からくつがえされる。戦争の道徳価値と人間の生命価値について考え、人類最大の幸福である世界平和の実現は、軍備の撤廃にあるという持論を得たのだった。
 1921(大正10)年、水野は25年6ヶ月の軍人生活に終止符を打つ。 このとき、法律規則による以外、いかなる場合にも再び剣を吊るまいと自らにかたく誓い、剣に永久の別れを告げた。水野46歳。
 退役後も筆を休ませることなく、太平洋戦争に向かう社会情勢の中で、日米の対立激化を心配し評論を出し続けた。


海軍大佐で海軍と決別、軍事評論家、ジャーナリストに

懲罰言渡書の写真
懲罰言渡文の写真
 1921年(大正10年)正月、水野は「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)において、第一次世界大戦後のヨーロッパ軍隊の威力を保持するために、軍隊の民主化、軍人の参政権 を主張した論文を発表する。これを受けた世論は、「ついに海軍内にも社会主義にかぶれた 軍人が出現した」と、強い関心を示した。
 水野はこの論文を、上官の許可なく発表していたため、30日間の謹慎処分を受けるこ とになる。そしてついに、水野は同年8月、軍に永遠の別れを告げたのである。
 それ以降、水野は剣をペンに持ち替え、日本を代表する論檀紙に、軍備撤廃論や軍縮論 を執筆していく。
 「1937年(昭和12)年宇垣一成の組閣が流産してしまったのは、軍部が、軍部大臣武官制を立にとり、陸海軍大臣を出すことを拒絶したためである。つまり、戦前に政府 が軍部によって牛耳られてしまったのは、軍部大臣武官制にあるのだ。」 このように水野は早い段階から軍部大臣武官制の問題点を見抜き、「軍部大臣開放論」(『中央公論』大正14年1月号)において、シビリアンコントロールの重要性を説いたのである。これは、当時の識者の多くが水野とは反対の考えをもっていたことを考えると、彼の考えがいかに先見性を持っているかが伺える。
 1922年(大正11年)にワシントン軍縮会議が締結され、日本は英米と比べ大幅に主力戦艦保有量を制限されてしまうことになる。又、24年には、米で排日移民法が可決された。これにより、日本国内における反米感情が高まり、日米開戦がクローズアップされたのである。 このような状況の中で、軍事評論家の中には、日米戦争を肯定する論文を発表するものもいた。しかし、水野はそのような世論とは真っ向から反抗する論陣を張ったのであった。

水野広徳夫妻の写真
水野夫妻の写真
「日米戦わば、日本は必ず敗れる」

 1923年(大正13年)2月に加藤友三郎首相、上原勇作参謀長は、アメリカを仮敵国とする新国防方針を制作した。そこで、水野は「新国防方針の解剖」という論文を発表した。
 この論文において水野は、「現代戦は、兵力よりも経済力、国力の戦いである。さまざまなことを検討すると、我が国は米国に対して圧倒的に劣り、長期戦に絶えられないだろう。」と言った事柄を論じている。更に、このような国防方針は、頭でもおかしくならない限りは、作ることができない、とまで述べ批判している。いうまでもなく、これは当時の世論とは真っ向から対立する考えであった。
 また、「実際の戦争においては空軍が主体となり、東京全市は米軍による空襲によって、一夜にして灰燼に帰すであろう。さらに、長期戦になることを想定すると、日本の敗戦は免れない。」といったことも述べ、日米開戦に対し警鐘を鳴らしていた。
 東京大空襲や、日本の敗戦は、それから20年の後、水野が指摘した通り、現実のものとなる。水野は、こうしたことを、太平洋戦争の20年も前から予想していたのだ。
 ワシントン条約の締結について水野は、「有史以来人間のなしたる最も神聖なる事業」と絶賛し、条約を評価した。人々が政府や世論によって踊らされる中、水野は自らの目によって的確に事態を捉えていたのである。
 さらに、日本が経済生活において米国に依存している現状を捉えていた水野は、「米国が日本を潰すには、大砲は要らず、米国娘が絹をストライキすればそれで足りる。」と述べている。これは、日本経済のためには、日米協調が不可欠であり、米国との戦争になれば、経済状況での危機が訪れるこことを説いている一文である。
 このように水野は、戦争を危倶し、事態の核心をきちんと捉えきれていないのにもかかわらず、戦争を支持する者たちを痛烈に批判したのであった。


日米非戦争を主張、軍縮、軍部大臣開放論を唱える

水野広徳私服の写真
水野広徳私服の写真
 1924(大正13)年秋、日本軍は、太平洋上で米国を仮想敵国とした大規模の海上演習を実施し、これが引き金となって、日米戦争の論議に一気に火がついた。このような世論の高まりに危機感を感じた水野は、「日米両国民はもっと冷静になるべきである」と提言する。
 さらに水野は、「日本は日米の対立の原因は、双方の恐怖と危惧から来るものである。また、このような世論の中で、日本の国民が戦争に対する慢心や、自らの国民性に対してうぬぼれを抱いている。」と分析した。そして、マスコミや識者、帝国主義者や軍国主義者に対しても、日本の国民の猜疑心や恐怖心をかきたてている、と批判した。1924(大正13年)一月、宇垣一成が初めて陸相に就任し、軍隊の制度が確立して初めて軍縮に着手した。これに対し水野はもろ手を挙げて賛成し、軍縮に対して猛反対をした軍部に対して、「国防とは本来国家、国民の防衛であり、断じて軍人のための国防ではない。
国防に携わるものは、国民の信頼の厚く、国際的見識、経済的見識の高い人物たちに任されるべきであり、軍国主義者や帝国主義の軍人にのみ任されるべきではない。」と批判した。多くの人々が国防の意味を見失いかけていたときに、このような判断ができた人物がいたとは驚きである。
 政府が軍部の思うままに操られてしまう要因の一つであった軍部大臣(現役)武官任命制、統帥権の独立についても、この制度を廃止すべし、と唱えている。軍部大臣(現役)武官任命制については、分武官の出身を問わず、適材を任用すべき、と述べている。この制度によって軍人が同盟拒否をすれば、いかなる人物も内閣の組閣、維持が不可能になってしまう恐れがあるためである。さらに、統帥権独立論に関しては、軍略のために政略を犠牲にすれば、その被害は甚大なものになる恐れがある、と指摘した。〔「軍部大臣開放論」(「中央公論」大正13年8月号)〕


執筆禁止へ、歌に心境を託す

 時局の悪化により、水野は執筆を断念する。昭和9年には、水野は自らの心境を次のような歌に託した。

「戦えば必ず勝と己惚れて 戦を好む戦人あり」
「わけ知らぬ民をおだてて戦ひの 淵に追ひ込む 野心家もあり」
「わが力かえりみもせで只管(ひたすら)に 強気言葉を民は喜ぶ」
「戦えば必ず四面楚歌の声 三千年の歴史 あはれ亡びん」
「侵略の夢を追ひつつ敗北の 轍踏まんとす 民あはれなり」
「力もて取りたるものは力もて 取らるるものと 知るや知らずや」

 1934,35(昭和9,10)年にかけていよいよ軍部の抗争が激化していく過程でも、水野の見通しは的確であった。水野は友人の松下への手紙の中で「陸軍内の争いがどこまで発展するかはわからないが、結局、戦争をして血で血を洗うまではこの抗争は収まらないだろう。」と著し、日本の現状に対して嘆いている。
この半年後に、陸軍の皇道派と統制派の抗争は、ついに水野の予想通り二・ニ六事件にまで発展したのであった。


日記で時局批判、ヒトラーの本質を見抜く

書籍『戦影』の表紙写真
書籍『戦影』表紙写真
 日本が戦争へ埋没していく中で、水野が論文を発表できる範囲は狭められていき、行き場を失った思いは日記に吐露されている。1939(昭和14)年、ヒトラーがポーランドに侵略し、第二次世界大戦が勃発した。そのことについて水野は、以下のように述べている。
 「独伊軍事同盟成立す。日本も此れに参加せよと呼ぶ連中がある、危ないかな。暴れ武士、二人連れたちて花見かな」(5月22日付)
ポーランドが分割された時点では、「白昼の強盗なり、ソ連遂に侵略主義に堕す。資本主義国家と異なる点ありや。スターリンもまた帝国主義の奴隷なりき、ヒトラー、ムッソリーニと何の異なるぞ」(9月22日付)ヒトラーの傍若無人な振る舞いやスターリンの帝国主義を批判し、さらにイギリス、フランスの軟弱な姿勢に対する文句も随所に見られる。またヒトラーに付いてはかなり厳しく批判している。「彼に良心ありや。常識ありや。単に平和の破壊者のみならず、実に亦道徳の破壊者なり。彼を総統に頂き、依々としてその命を奉ずる独逸国民の良心を疑う。唾棄すべく、軽侮すべく排斥すべし。然るに今尚、ドイツを尊奉し、ヒトラーを崇拝する日本人の多きは馬鹿か阿保か。正義を愛するものの恥とする所なり。ヒトラーのこの暴慢無恥なる声明に対し、戦争恐怖症の英仏の出方如何?」(9月30日付)
今から見れば水野の警告や予言は当然の指摘にも見える。しかし約70年前の時代状況で、これだけ冷静で的確な判断をできた知識人は、一体何人いるであろうか?


遂に執筆禁止、疎開、死亡

水野広徳の墓の歌碑写真
水野広徳歌碑
正宗寺[松山市末広町16-3]
 桐生悠々の有名な「関東防空大演習を笑う」(昭和8年8月11日付)において、敵機が日本本土に襲来し、空襲に会えば日本の都市に大きな被害をもたらすため、敵国への攻撃がままならないことをといた。さらに、バケツリレーなども爆撃機などの前にはほとんど意味をなさないものになる、とも述べている。水野はこの桐生よりも10年以上も前に、国際情勢や日本と米国の関係を鑑み、桐生と同様に、戦争への警鐘を鳴らしていた。その洞察性、先見性は、同時代の知識人とは比べ物にならないほど優れていたのである。 反戦平和主義者として軍国主義、ファシズムと戦った水野の評価は、これまでのところ、決して高いものとはいえない。彼は、先駆的な自由主義者、リベラリストであり、科学的、合理主義的な思想の持ち主であったのだ。
 1941(昭和16)年2月、情報局は、「中央公論」編集部に対して執筆禁止リストをしめしたが、水野はそのリストに載せられてしまったのである。
 敗戦色がいよいよ色濃くなる中で、水野は34(昭和18)年から郷里の愛媛県越智郡津倉町(現今治市)の瀬戸内海伊予渡島に療養のために転地し、そこで敗戦を待つこととなる。
 8月15日、日本はついに敗戦を迎える。翌日付の友人・松下への手紙の中で、水野は、「国を守る義務にあるべき軍人が、政治を翻弄させ、そのために敗戦してしまった」という感情を抱いていることを吐露している。また今後の日本について、今一番必要なのは、人間を神として崇拝するような迷信を捨てる頭の切り替えである、(9月27日付)と述べ、天皇制の廃止や、国民の自由意志による政治体制を主張していた。
この年の10月18日、水野は愛媛県今治市内の病院で死去した。享年72歳。

『世にこびず人におもねらず、我は、我が正しいと思ふ道を歩まん』
 
これは、松山市の正宗寺にある水野の墓の歌碑に記された歌である。戦争の時代と真正面から対峠した平和主義者・水野の生き様を象徴した歌ではなかろうか・・・


水野広徳と秋山兄弟とのつながり

戦影 秋山真之序文の写真
書籍『戦影』用に秋山真之が書いた序文
 武家社会の崩壊ともいえる明治維新、その後の父の早世により、絵に描いたような下級藩士の末路に遭遇した水野広徳が六歳で預けられたのが、母方の叔父にあたる笹井家。時同じくして秋山兄弟は叔母の実家、父方の従兄弟にあたり、幼少期の広徳も中歩行町の秋山家へ時折使いにやられていたらしい。
そうしたこともあってか、水野自身が「最も会心の作なり」と評した『戦影』(旅順海戦私記・大正三年出版)に秋山真之が序文を寄せているが、何故か採用されていない。
(水野広徳ゆかりの品参照)



水野広徳に関する資料は下記のところにも存在します。
松山市子規記念博物館
水野広徳の遺品、数百点を所蔵しております。

〒790-0857愛媛県松山市道後公園1-30 Tel 089-931-5566
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